数日後の夜の事だった。街の北の森に近づく、一つの影があった。その影は周囲を気にしながら、明かり一つ持たずに森の中へと入っていった。
 森の中は、樵や猟師が使う道があったのと、月の光が煌々と降り注いでいたため、思ったよりも暗くは無かった。だが、その影、マックスの心中は不安で満ち溢れていた。だが、それでも、マックスは森の奥へと進んでいった。そうせざるを得なかったからだ。
 クーノー将軍と会った次の日から、いつにも増してマックスは鍛錬に勤しんだ。が、調子が上がらない。むしろ、以前より、悪くなったように感じられた。
 どうすべきかわからず、マックスは悩み続けた。夜も、あまり眠れない。
 その日の夜も、マックスは長い間寝付く事ができなかった。アガーテの事、クーノー将軍の事、戦の事、そして、カスパールから聞いた魔法の矢の事。色々な事が、マックスの頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんでいった。
『マックスなら、いつか必ず、お父様も認めて下さるわ』
 アガーテの言葉が浮かぶ。その言葉は、マックスにとって嬉しい物であったが、それ以上に重苦しい物であった。
『功は急いで得る物ではない。君を見ている者は、ちゃんと見ている』
 将軍の言葉。マックスはわかっていた。功を急いでいる事、そして、焦るあまり空回りしている事を。
『その矢は、ただ射さえすれば、必ず標的に当たるらしい』
 カスパールの言葉。それが最もマックスの頭の中に、大きく響いた。
(そんな矢が、本当にあるのか?)
「本当にあるのなら……」マックスは右手を伸ばし、見えない矢を握り締めた。
 その後、マックスは静かに兵舎を出た。目指すは、北の森。カスパールから聞いた噂話を完全に信じたわけではなかったが、今のマックスにはそれに縋るしかなかったのである。

 森の中を歩いていたマックスは、ふと、道を外れて暗い多くの木々や草が茂る中へと分け入っていった。まるで、何者かに操られていくように思えたが、それでもマックスは躊躇わず足の赴くままに森の奥へと進んでいった。
(もし、悪魔に呼び寄せられているのだとしたら、逃げるわけにはいかない)
 先ほどまで歩いていた道とは違い、月の光も届かない。だが、なぜか、マックスは木の根や石などに足を取られる事が無かった。
 突然、マックスは開けた場所へと辿りついた。その場所が先ほどの道よりも明るく感じられたため、マックスは頭上を見上げてみた。そこには、月があった。
「私の矢が欲しいのかね、マックス?」突然、背後で何者かの声がした。
 思わずマックスは背後を振り返り、後ずさった。が、そこには、何者もいなかった。
「だ……」マックスは何者か問い質そうとしたが、声が出ない。いつの間にか、喉がからからに渇いていた。
(悪魔なのか? だが、なぜ、僕の名を知っている?)
「名前を知る事など、造作もない事。人ではない、私にとってはな」再び、声が響く。
 その声に、マックスは背筋が凍る思いがした。全て見透かされている、そんな恐怖に囚われる。
 と、マックスは足元に何者かの影が伸びている事に気づいた。月が真上にあったはずなのに、その影は長々と伸びていた。そして、その影には角のような物が生えていた。
「どうした? 矢が欲しいのではないのか?」嘲笑うような声。
「そう……、だ」マックスはやっとの事、それだけを告げた。恐怖のあまり、振り返る事もできない。
「そうか。くっくっくっ。私は君のような人間が、嫌いではないよ」
 マックスは黙っていた。喉が乾いて声を出すのも苦しい事や恐れもあったが、それ以上に、悪魔の声の下卑た調子に、虫唾が走っていたのである。
「私の相手をするのも、嫌だと言いたそうだな。悪魔の力を借りねば、女一人、物にできぬくせに」
「くっ!」その悪魔の声に、マックスは思わず両手を握り締めていた。が、殴りかかろうにも、振り返る事ができない。
 と、視界にいつの間にか、矢の詰まった矢筒が入っていた。それは、さっきまで無かったはずの物であった。
「持って行け。使うかどうかは、君次第だがね」悪魔の挑発的な声が響く。
 マックスは恐る恐る、矢筒へと近づいていった。遠めに見た時、矢筒は極普通の物に見えた。すぐ側まで来ると、やはり、矢筒は普通の物に見えた。ただ、矢筒に入っていた矢だけが異様だった。
(なんだ、この色は?)
 矢は、まるで、闇のように黒かった。マックスが試しに一本抜いてみると、その鏃すらも、黒く輝いていた。
(この矢なら、誰が仕留めたのか、一目瞭然だな)
 矢をしまうマックスに、笑みが浮かぶ。それは、新しい玩具を貰った、子供のようであった。
「マックス、一つ予言をしよう。君が最後に放つ矢は、最も憎む者に当たるだろう」最後に、そう悪魔の声がしたが、マックスにはその意味が解からなかった。

 次の日、マックスはその魔法の矢を試射してみた。まず、普通に的目掛けて矢を放つ。すると、矢は狙い通り、的の中心を射抜いた。
 そして、数本試した後、マックスはふと意識の上では的を狙いつつも、わざと矢を向ける方向を外して構えた。そして、一つ深呼吸をすると、マックスは矢を放った。
 当然、矢は的を外れて飛んでいく。が、突然、矢の向かう方向が変わり、まるで、吸い込まれるかのように、矢は的の中心へと突き刺さったのである。
「よし」それを見た、マックスがほくそ笑む。
 そして、マックスは一息入れると、今度は普通の矢を取り出し、いつものように鍛錬に勤しんだ。気が楽になったためか、以前の調子の悪さが嘘のように、的を射抜いていった。
「調子が良さそうだな」と、マックスに声をかけて来る者がいた。カスパールである。
「ああ。大分、調子を取り戻したようだよ」マックスがそう、笑顔で答える。
「そうか。それは、良かったな。私はてっきり……」と、そこまで、カスパールは言うと、マックスの耳に口を近づけた。
「噂の悪魔から、魔法の矢でも貰ったんじゃないかと思ったよ」
 そのカスパールの言葉に、マックスの笑顔が凍りついた。が、カスパールはその事には特に気にもとめず、にやりと笑った。
「はは。冗談さ。本来の君の腕の良さは、私も良く知っている」カスパールはそう言うと、マックスの背中を軽く叩いた。
「次の戦での後方支援。期待してるよ。じゃあ、私も素振りでもしてくるかな」カスパールはそう言うと、マックスに手を振って去っていった。
 その間、マックスはカスパールと眼を合わせる事ができなかった。悪魔に力を借りたと言う後ろめたさが、マックスの心に重く伸しかかっていた。
 その後、マックスはカスパールにもアガーテにも会う事もできぬまま、戦の日を迎えたのであった。

 戦が始まった。魔法の矢を持っている事で、マックスにはこの戦で活躍できる自信があった。が、一抹の不安もあった。
「当たれ!」その不安を捻じ伏せるように、マックスが矢を放つ。矢は狙い違わず、遥か遠くの弓兵の顔を貫いた。
「……っ!」それを見たマックスは、思わず声を失った。
(当たっ……、た)
 安堵の息を漏らす。が、すぐに今が戦の真っ最中である事を思い出し、マックスは慌てて次の矢に手をかけた。
 勿論、その矢もマックスが狙った敵兵を射抜く。思うように敵を倒せる快感は、マックスを急かしていった。
 矢継ぎ早に矢を放つ、マックス。そして、その全ての矢が敵兵に致命傷を与える。敵兵の中には、マックスの矢に気づき、避けるなり打ち払うなりする者もいた。が、矢は避けた方に向かって方向を変え、打ち払おうとする武器を擦り抜ける。
 時に、マックスは敵味方が錯綜する方向へも矢を放った。が、その矢が味方に当たる事は無かった。
 しばらくして、マックスの活躍もあってか、戦況は圧倒的に優勢になってきた。しかし、それでも、マックスは休む事も無く矢を放つ。やがて、黒い魔法の矢も残りわずかとなっていった。
(そうだ。敵将だ。敵将を倒せば、確実に将軍も認めてくれるはず)
 マックスはそう考え、戦場を見渡した。そして、戦場で必死に士気を鼓舞している、敵将と思わしき者を見つけた。
「よし!」すかさず、矢を引き抜くマックス。が、それが最後の矢である事に、マックスは気づきもしなかった。
 矢を構えるやいなや、マックスは矢を放っていた。その矢は最初のうち、真っ直ぐに飛んでいた。が、突然、矢がありえない角度に曲がった。
(え……?)
 何が起きたのか理解できず、マックスはその矢を眼で追った。最後の魔法の矢が、そのマックスの背後の方へと飛んでいく。
「そんな馬鹿な!」思わず叫び、マックスが振り返る。その直後、マックスは信じられない光景を見たのであった。
 しばらくの間、マックスはその光景を凝視したまま、身動きできなかった。いや、それはマックスだけでは無かった。その場にいた、誰もが同じ状態だったのである。
 その時、何者かの声が辺りに響いた。
「マックス、何と言う事を! いくら、恋人との中を反対されていたとは言え、クーノー将軍を殺すとは!」その声を、その場にいた全ての者が、はっきりと聞いていた。が、それが誰の声だったのかは、誰にもわからなかった。
「嘘……、だ」マックスが呆然とそう、呟く。
『君が最後に放つ矢は、最も憎む者に当たるだろう』
 悪魔の言葉が蘇る。瞬間、マックスは我に返り、大きく首を振った。
「違う! 僕は尊敬こそすれ、将軍を憎んでなどいなかった!」マックスは叫んだ。だが、その叫びは周囲の喧騒に掻き消えてしまった。