雲の切れ間から、月が顔を覗かせた。その柔らかい光は魔性の森を暖かく包み込み、その中を明るく照らし出した。が、それも一瞬の事であり、すぐに月の光は暗雲によって遮られてしまった。
 その魔性の森を南へと駆ける、一つの影があった。その影は道無き道を進み、肩で大きく息をしていた。その影は、一人の少女であった。その少女の名は、エルミと言った。
 エルミは心臓の鼓動を少しでも抑えようとするかの如くに両手で左胸を押さえ、南へと逃げるように走り続けていた。その瞳は涙で潤み、その唇は涙を堪えようと、強く噛み締められていた。
 エルミは絶えず後ろを気にしながら、森の奥へ奥へと走っていた。が、辺りに物音はせず、エルミが草を掻き分けて進む音だけが、寂しく森の中に響いていた。
 と、突然、エルミの目の前に、木の上から何かが降りてきた。その瞬間、エルミは立ち止まり、目を見開いたまま後ろへと退いた。その瞳は恐怖の色に染まり、エルミは後ろの木に力無く寄りかかった。
「よう、御嬢さん。こんな夜遅くに、御散歩かい?」と、その男、レインがエルミにそう話しかけた。
 が、エルミはレインを凝視したまま、身動きすらしなかった。そのエルミの瞳を見ると、レインは鼻で笑った。そして、ゆっくりとレインはエルミに近づいていった。
「おい、おい。俺は全く怪しい者……、だな。いや、まあ、善人じゃあないが、根っからの悪人でもない」レインがそう言いながら、エルミに近づいていく。
 が、エルミは全く警戒を解かずに、化物でも見るかのようにレインを見詰めていた。それを見ると、レインは困ったように溜息を吐き、近づくのを止めた。
「あんた、名前は何て言うんだ? そして、何をそれほどまでに怖れているんだ?」レインはエルミをこれ以上怖がらせないように、声の調子をなるべく和らげて聞いた。
 が、エルミは答えようとはしなかった。幾分、警戒が薄らいだ事にレインは気づいたが、それも焼け石に水程度の物であったようだった。
(ちっ……。よくよく考えてみれば、こんな女に構う理由はねえじゃあねえか。寝よ、寝よ)
 と、レインが欠伸をしながらエルミに背を向けた瞬間、レインの耳に何人もの人間がこちらに向かってくる音が飛び込んできた。しかも、それはそれほど遠くはなく、すぐ近くであった。
「しつこい連中だな。良いじゃねえか。一つしかない物の一つや二つ、取られたくらいで……」レインはそう呟くと、物音のする方を見た。
「いたぞ!」その瞬間、闇の中から十人以上の兵士達が、その声と共に姿を現した。
 すると、エルミは突然、南へと駆け出していった。レインはそれに一瞬気を取られたが、すぐに兵士達の方に向き直った。そして、レインはゆっくりと腰の短刀を引き抜いた。
「来やがれ! このレイン様を嘗めるなよ!」そう叫ぶと、レインは兵士達に向かって、襲いかかっていった。
「邪魔だ! 退け!」が、次の瞬間、レインはその言葉と共に、兵士の一人に横に突き飛ばされてしまった。
 そのため、レインは短刀を握り締めたまま地面へと倒れ、軽く頭を打ってしまった。そのレインを兵士達は無視して、南へと走り去っていった。
 その後姿をレインは頭を軽く押さえながら、唯、呆然と見送っていた。そのレインの頬に、雨が一滴降りかかった。
(あいつら……。俺を追ってきた連中とは違うのか?)
 レインはゆっくりと立ち上がった。それと同時に、大雨が魔性の森へと降り注いできた。そのため、レインはあっと言う間に、ずぶ濡れになってしまった。
「ば……、馬鹿野郎! 俺の許可無しに、雨を降らすな!」レインは頭上の暗雲に向かって、そう怒鳴った。が、当然、雨は止まなかった。
 しばらくして、レインは足元を向くと、一つ溜息を吐いた。そして、レインは目を瞑ると、右手でゆっくりと前髪を掻き揚げかけた。が、レインはその右手を途中で止めると、突然、かっと目を見開いた。そして、歯を食いしばると、レインは南の暗闇に視線を注いだ。
 その後、レインはもう一度足元に視線を注いだ。そして、レインは一気に顔を上げると、南を振り向いた。雨水がレインの目に入り、レインは右腕の袖でそれを拭った。
「ちっ……」と、レインは舌打ちすると、地面に唾を吐きかけた。
 そして、レインはいつの間にか豪雨となっていた大雨の中を、南へと駆け出していった。目に入る雨水も気にせずに、レインは南へと掛け続けた。
 しばらくして、レインは突然、立ち止まった。そのレインの目の前には、大きな川が流れていた。その川は豪雨によって川幅が広がっており、その流れもいつもよりも急になっていた。その川を渡り切る事は、レインには到底できそうに無かった。
 が、にも関わらず、レインはその川へと一歩足を踏み出した。その途端、レインの右足は急流に捕らわれてしまい、そのため、レインは体勢を崩して倒れかけてしまった。
「くっ……。おい、おい、レイン? 一体、おまえはどうしちまったんだ? なんで、あの女の心配なんかしているんだ?」そうレインが俯いて呟く。
(わからねえ。なぜ、あの女が無性に気になるんだ? 惚れた訳でもあるまいし……。大体、顔もろくに見てやいねえ)
 レインは頭を強く振った。その時、川上に何人かの人間の姿がある事に、レインは気づいた。それは、川を背にしたエルミの姿と、それを包囲する十人以上の帝国の兵士達の姿であった。
(あれは、助からねえな。帝国の兵士に追われるような事をしたんだから、自業自得だな……)
 レインは何とも言えない表情で、それをじっと見詰めていた。そのレインはエルミを助けたいと言う衝動と必死に戦い、そして、それに勝つ事ができた。なぜならば、エルミを助けようとするならば、レインは死を覚悟しなければならないからである。
 やがて、兵士達はゆっくりとその囲いを狭めていき、エルミに今にも襲い掛からんとしていた。レインはそれを固唾を呑んで見詰め、決して目を離そうとはしなかった。そして、両拳を握り締めて、レインはエルミを未だに強く胸の中に渦巻く、助けたいと言う衝動を必死に堪えていた。
 と、突然、エルミが荒れ狂う激流へと身を投げた。それは、考えられない事であった。そのため、兵士達はそれに呆気に取られ、その行為を止める事ができなかったのである。
(な……? 馬鹿な事しやがって……)
 その瞬間、レインは川岸へと駆け寄っていた。そして、エルミの姿をレインは水上に捜し求めた。そのレインの目に、川上から流されてくるエルミの助けを求めるような、か細い右手が映し出された。
 レインは迷った。エルミを助けるべきか、それとも見殺しにするべきか。そして、レインは歯を食い縛ると、川に背を向けた。
(俺には……、関係ねえ……)
 レインは川から離れようと、ゆっくりと歩き出した。が、レインはすぐに立ち止まってしまった。
「ええい! 儘よ!」そうレインは叫ぶと、川の方を振り返った。
 そして、レインは川に向かって駆け出すと、激流の中へと飛び込んでいった。そのレインの姿は、あっと言う間に、激流の中へと呑み込まれていったのであった。