その日の夜、夜空は暗雲にその姿を隠され、帝都ラルグーンは闇に包まれていた。日中、雲一つ無かったラルグーンに、その暗雲がどこからとも無く現れたのは、太陽が西のガルト海へと没してからの事であった。
 その異変に、多くの人々は気づいた。が、この異変がその日の夜中に城へと忍び込んだ盗賊と、深く関わりあっている事には気づく由も無かった。その盗賊の名はレイン、身軽さだけが取り柄の一介の盗賊であった。
 その一介の盗賊、レインは首尾良く城から逃げ出す事ができた。その右手には、城から盗み出してきた真紅の刃の短剣が握られており、その刃は赤く光り輝いていた。その短剣の名を血脈の短剣と言った。
 レインは、その短剣が持つ力を全く知りはしなかった。いや、一介の盗賊がそんな些細な事を気にする必要は、全くと言って良い程無かったのであろう。とにかく、レインはその血脈の短剣が、世界にとってどれほどまでに重大な力を持っているのかを全く知らなかったのであった。
 そのため、レインは城から少し遠ざかっただけで安心し、呑気にも闇夜の散歩を洒落込んだのである。帝国の兵士達が血眼になって、レインと血脈の短剣を探しているとも気づかずに。
「今日の仕事は楽だったな。天気も良いし、盗賊日和とはこの事だな」レインはほくそ笑みながら、頭上を見上げていた。
 相変わらず、空は暗雲に包まれていたが、逆にレインの心は晴れ渡っていた。この暗闇がレインの味方をし、城への侵入と脱出を助けたからである。レインの言う通り、まさにこの夜の天気は盗賊日和と言えた。
 と、レインは表情を引き締めた。そして、ゆっくりと腰の袋から血脈の短剣を取り出すと、それを目の高さまで上げた。すると、ゆっくりとレインの口元が緩んでいき、ついにはにやりと締まりの無い顔へと変わった。
 そのレインが持つ血脈の短剣は、不思議な事にこの暗闇の中でも怪しく赤く光り輝いていた。それは血のように赤く、少し不安にさせるような色であった。
「はっはっはっ……。こいつは、面白いな。照り返す光も無いのに、光っていやがる。しかも、血でできてるようだ。そうは、思わないか?」レインはその輝きを見ると、そう誰かに話し掛けるように言った。
 すると、その瞬間、レインの言葉に答えるかのように、その赤い輝きが一瞬だけ閃いた。それに気づくと、レインの顔がますます笑みで満たされた。そして、レインは血脈の短剣を、頭上に軽く投げ上げた。
「面白い! 良い買い物をしたな、レイン。こいつは、高く売れそうだ」落ちてきた血脈の短剣を受け取ると、レインはそう言った。
 その時であった。城の方角からレインに向かって、何者かの声が飛んできたのである。
「おい! そこにいるのは、誰だ?」それは、帝国の兵士の声であった。
「通りすがりの盗賊だ。ま、気にするな」そう小声で答えると、レインは苦笑して、ゆっくりと歩き始めた。そして、徐々に歩を速めていき、いつしかレインは走り出していた。
「怪しい奴! 待て!」そのレインを兵士が追う。
 それに気づくと、レインは足音を消すために、少し逃げ足を遅める事にした。そして、レインは広い道を南に向かって、真っ直ぐに逃げていった。なぜならば、この暗闇では兵士に姿を見られる事は無いので、わざわざ横道に入る必要が無かったからである。
 が、不思議な事に、その兵士は全速力でレインを追いかけてきた。兵士に、レインの姿を見る事は不可能のはずであった。レイン自身、兵士との距離を足音で判断していたくらいである。
(しまった! 奴は、悟りの化物か!)
 レインは思わず立ち止まって後ろを振り向くと、左手で頭を掻いた。が、すぐに思い直し、レインは再び足音を立てないように駆け出していった。
「待て!」再び、後ろから兵士の声がしたが、当然、レインは立ち止まらなかった。
(まあ、待ってもいいんだが、それじゃあ、ただの馬鹿だからなぁ……)
 レインは困ったように眉を顰めた。そして、再び、左手で頭を掻いた。
「おい、どうした?」と、別の兵士の声がした。
(え……?)
 その声に、レインは目を少し見開いた。
「賊だ! 応援を頼む!」今までレインを追っていた兵士が、そう叫ぶ。
(それは、遠慮したいな……)
 レインは苦笑し、ゆっくりと後ろを振り返った。が、やはり、レインには兵士の姿は見えなかった。
「ん? あれだな?」と、新たな兵士の声がする。
(ちょっと、待て、おまえら! なぜ、わかる?)
 その声に、レインは大きく目を見開いた。そして、その額に冷や汗が滲んできた。
「よし。おい、おまえ、他の者に連絡しろ。残りは俺についてこい」
「はっ!」と、また、何人かの声がする。
 すると、レインは突然、立ち止まった。そして、暫く、耳に全神経を集中させると、追手の兵士の足音の数を確認した。そして、さも嫌そうにレインは、ゆっくりと表情を歪めた。
(おい、おい、おい、おい……。七人かよ。参ったな……。しかし、ナパ・ジェイのシルヴァじゃないってのに、なぜ、あいつらは俺を確実に追ってこれるんだ?)
 レインはその後、かなりの間、逃げ続けたが、全力疾走して追いかけてくる兵士達との差は、縮まるばかりであった。そのため、身の軽さを売り物としているレインも、呼吸が苦しくなっていったのであった。
 これには、さすがのレインも精神的に参り始めていた。それは、まるで目に見えない敵に追われているような物であるから、無理はなかった。そして、レインが兵士達に追い着かれるのも、時間の問題となっていた。
(ちっ……。やばいぞ。こいつは、かなり、やば……・。ん?)
 と、レインは右手でしっかりと握り締めていた、ある物に気づいた。それは、赤く光り輝く、血脈の短剣であった。
 しばらく、レインは逃げながら血脈の短剣をぼうっと見詰めていた。そして、一つ溜息を吐くと、レインはその血脈の短剣を腰の袋へと放り入れた。
(馬鹿か、おまえは! 明日の朝飯は抜きだぞ、レイン?)
 レインは苦笑すると、ちょうど目の前に現れた森の中へと飛び込んでいった。その森を人は、魔性の森と呼んだ。
 が、レインはその事を知らない。