月が煌々と照らし出す深夜の街は、静けさに包まれていた。それは、まるで、街の人々が息を潜めているかの様であった。
 その街の片隅で、剣と剣の打ち合う音がした。続けざまに、二度、三度、剣と剣が打ち合わされる。そして、その後の鈍い音と共に、それは止んだ。
「はぁっ! はぁっ……」その音を発していた場所では、一人の男が肩で息をしていた。
 その男の目の前には、皮鎧に身を包んだ、恐らくはこの街の衛兵であろう男が倒れている。その衛兵は左胸を剣で貫かれて息絶えており、自らの血で作り上げた血の海の中にいた。
「まだ……、だ。まだ、足りない」男はそう呟くと、衛兵の胸から剣を引き抜いた。
「ア……、アイン」と、その男の背後から何者かの声がした。
 男がゆっくりと背後を振り返ると、そこには一人の衛兵がいた。それを見ると、男は不気味な笑みを浮かべた。
「き、きさまか! 一体、何の理由があって、罪も無い人を殺してるんだ!」衛兵が怒りのあまり、そう叫ぶ。
「理由?」男がそう、聞き返す。
「そうだ。今まで、何人もの街の人々が殺されている。全て、おまえの仕業なんだろ?」衛兵が腰の剣に手を伸ばす。
「月が……、月が眩しいからだ」男がそう答え、左手で頭を掻き毟る。
「何を馬鹿な事を」その男の口調に、何か得体の知れない物を感じた衛兵は、用心深く剣を引き抜いた。
「気が狂いそうになるんだよ、あの月を見ている、と。だけど、ね」男が誰に聞かせるでもなくぶつぶつと呟きながら、衛兵に近づいていく。
「く、来るな!」それを見た衛兵は背筋が凍るのを憶え、真横に剣を振るう。
 が、突然、男が姿勢を下げたため、衛兵の剣は空を斬った。そして、次の瞬間、男の剣が衛兵の左足を貫いた。
「ひっ?」衛兵が恐怖に駆られ、思わずそう叫ぶ。
「他人の血を見ると、心が落ち着くんだよ」男が耳元で、そう囁いた。

「寝られないな」そう、男が呟く。
 その男、ゼイラスは街道を歩いていた。街までは、後、半日と無い。
(昨日より、月の光が強い。こんなのは、初めてだな)
 ゼイラスは街へ向かってゆっくりと歩きながら、月を見上げた。
「明日は、満月か。今日より、強くなりそうだが、宿にでも泊れば多少は楽になるかな?」ゼイラスがそう、諦めた様に溜息を吐く。
 と、しばらくして、ゼイラスは立ち止まる。そして、再び、月を見上げた。
「そうか。四年になるのか」
『四年に一度、月の女神の力は増し、月は血のドレスを身に纏う』
「あいつはそう、言ってたな。あれから、四年か……」ゼイラスはそう呟くと、首からぶら下げた首飾りを手に取った。

「あんた、旅人かい?」次の日の朝、ゼイラスは街へと着くと、門番にそう尋ねられた。
「ああ、何日か休んで疲れを癒したら、すぐに出て行くよ」
「そうかい。いや、その方が良いな。まぁ、正直言うと、泊らない方が良いんだがな」門番がそう、声を潜めて言う。
「何かあるのか?」ゼイラスがそう、銀貨を一枚門番に見せて聞く。
「いや、そんなつもりは無かったんだが、すまないな」門番はそう言うと、非常に嬉しそうに銀貨を手に取る。
「気にするな。で?」
 と、門番が左右を見回すと、ゼイラスの耳元に顔を近づける。
「この頃、夜中が物騒なんでな。今まで、何人も殺されてる」
「衛兵は?」ゼイラスが聞く。
「駄目、駄目。その衛兵すら、二人掛かりで殺られちまってるんだ。
頼りにならんよ」
「そうか。それは、いつ頃から?」そう言い、ゼイラスがさらに一枚、銀貨を渡す。
「一週間位前からだな、俺が聞いた話じゃ」
「ありがとう。あまり、長居しない様にするよ」ゼイラスはそう言うと、街の門を潜った。
 街の中に入り、宿を捜す。その間、ゼイラスは眉を顰めていた。
(四年前の……、俺がいるのか)

 ゼイラスは宿を決めると、部屋に荷物を置き、ベッドへと横になった。昨夜は寝てはいないが、眠気は無かった。
 ベットに横たわったまま、首飾りを手にしゆっくりと眺める。
『これで、君は月の女神から解き放たれた。もっと、喜び給え』
「馬鹿野郎。何が、喜べ……、だ」ゼイラスがそう、呟く。
 目を瞑る。ゼイラスの過去の記憶が呼び起こされる。
 それは、四年前、ゼイラスがまだ、自分が生まれ育った街にいた時の事だった。ゼイラスの目の前には、血だらけの男がいた。右手には首飾りを握り締め、ゼイラスの額にそれを翳していた。
『月の女神よ。あなたに、彼を渡しはしない』その男の静かな声には、強い意志が篭められていた。
 ゼイラスが両目を見開き、首飾りを見る。そのゼイラスの瞳には、涙が滲んでいた。
「俺にはまだ、あんたの代わりは出来ない。俺に今出来る事は、月の女神に愛され、心を食われた男を止める事だけだ」
 身を起こすと、ゼイラスはベッドの側に置いた荷物に、手を伸ばした。そして、鞘ごと剣を手に取ると、ゆっくりと剣を引き抜いた。

 夜、窓を開けると、ゼイラスは空を見上げた。
「あいつの言った通りだな」夜空に浮かぶ月を見て、ゼイラスがそう呟く。
 と、ゼイラスは静かに窓から外へと出ると、音も無く二階から舞い降りた。
「さて、と」ゼイラスがそう、左右を見る。
「あっち……、か」と、ゼイラスは右へ向かって、道を歩き始めた。
(感じる。月の魔力が強くなっている所為か?)
 しばらく歩いていくと、ゼイラスは血の匂いを嗅いだ。それは、すぐ近くから漂ってきていた。
「失敗したな。もう、始まってるのか」ゼイラスが眉を顰め、走り出す。
 と、目の前の角を曲がった瞬間、ゼイラスは思わず立ち止まった。眼前に広がる景色に、立ち止まらざるを得なかったのである。
 ゼイラスの目の前には、二人の衛兵が身動き一つせず、冷たく転がっていた。二人の衛兵には共に無数の傷があり、道は真赤に染まっていた。
(こいつは……)
 吐き気を憶え、ゼイラスが口を押さえる。
「四年前の俺以上だ」ゼイラスはそう吐く様に言うと、二つの死体を飛び越えた。
 ゼイラスが剣を引き抜く。そのゼイラスの視線の先には、動かない衛兵に尚も自分の剣を突き入れ続ける、男の姿があった。
「はぁ!」ゼイラスが剣を振り下ろす。が、それは男の剣によって、遮られた。
(反応速度が尋常じゃない。だが、それは俺も同じだ)
 一歩後退り、ゼイラスが体ごと剣を突き入れる。それを男が、横に跳んで避けた。
「血だ。血を欲しがってるんだ。もっと、もっと」男の呟きが、ゼイラスの耳に聞こえてくる。
「すまないな。俺には、おまえを救う事は出来ない。いや、こんな事を言っても、もう、おまえの心には届かないんだろうな」そう言い、ゼイラスが構えを解く。
 と、瞬間、男がゼイラスに襲い掛かっていく。男は剣を振り上げると、無防備のゼイラス目掛けて振り下ろした。
 が、ゼイラスはその攻撃を紙一重で横へと避けた。そして、間髪入れず、ゼイラスは剣を勢い良く振り上げた。
 鈍い音が響く。それは、男の剣とそれを掴む両手が落ちた音だった。
「痛みも、感じてはいないんだろうな。心を食われ、狂気しか残らない、今のおまえには」ゼイラスはそう呟くと、男に向けて剣を振り下ろした。

 男の死体を前にして、ゼイラスが無言のまま、月を見上げている。そのゼイラスの二つの瞳に、その月は血に染まって見えた。